昔の家の間取りを思い出している。玄関はトボーといった。戸を境に外トボーと内トボーがあった。土間であったが後にコンクリをブッタ。内トボーに続いてイロリのある板の間、その奥は台所、勝手場といったか。イロリのとこから一段上がって茶の間、天井は張ってなかった。茶の間にもイロリが切ってあったが、ふだんは使わないでふたをしていた。ナンカのときに炭をいれてつかった。火は燃やさなかった。ススケルのを嫌ったか。神棚もあった。その奥がジャシキ(座敷)、天井あり。そのとなりがオクンデ。茶の間から横に入るとナカマ。寝間だった。
ヒャクショーヤ(農家)では土間の隣に壁を隔てて牛の部屋があり、その先に便所があった。そこに行くには牛の出入り用通路にかかった橋(といっても厚板何枚か)を渡った。よだれをたらした牛が顔を出していることもあった。よけて通った。もちろん、においプンプン。夏はハエがブンブンというよりワンワン。便所でも。牛小屋の上は厚板を張って物置にして、脱穀したワラが束ねて積んであった。ワラ加工用のいろいろな道具もおいてあった。そこは土間のほうからハシゴをかけて上がった。ソラといった。天空でないソラもあるのだと、おばえていた。(高所に強い人を「ソラが強い」ともいった。今、伐採や枝下ろしなどをする空師という職人もいる)
家の中のいろりのある板の間、作業もする、をニワといった。外の作業するところもニワだった。これらも学校での意味とちがった。後にニホン語のニワ(ニハ)は今ふつうの「庭園・ガーデン」よりずっと広い意味だったことを知った。ココラ語のニワを知っていたおかげですんなり理解できた。
本家などシンショモチの家にはオクンデの外に縁側があり、その外に「庭」もあった。ツボドコといった。水がひかれタナヤ(池)や庭石があり庭木が植えられていた。
茶の間はふだんは畳を敷かない板の間で、穫れ秋にはイネアゲ(ハッテで乾かした稲束をツナギでマルケテ家に運び入れる)したのの置場になった。太い梁ちかくまで積み上げた。乾いたワラのにおいがみちた。そこは子どもの格好のアスビバ(遊び場)になった。登って飛びおりたり、ワザコトころがり落ちてアスンだ。当然ワラまみれになった。見つかるとバカヤロドモ、ナーシテルガダ、とオッツァレタ。
茶の間のいろりの上にはカギサマを吊すための太い縄が梁からぶら下がっていた。ふだんは邪魔になるのでマツメテしばって上げてあった。乾いた稲がはいると子どもにも手がツヅイタ(届いた)。それにぶらさがってターザンになった。ブランコよりオモシカッタ。そのうちひざを縄に引っかけて、逆さになってした。なかなかスリリングだった。サーカスのよう。また、友だちに逆さのままぐるぐるまわして縄をモジ(よじる)ってもらった。手を放してもらうとくるくる、ぐるぐる回転。よじれがもどると逆方向によじれる、また回っちゃ止まって、また回る、きりがない。血が上って(下ってか)アタマもイネェになってきた。これがずーっと続くかと思われ、止めてくれーと叫んだが、友には見放された。目が回ってどうにかなってしまいそうだった。泣きわめいていたらそこのお姉さんに助けられた。ホントに助かった。ホーッ。しばらく横になっていた。立ち上がってもまだふらふら。手が板の間に届かないようにしていたのが失敗だった。こりて以後しなかったが、失神に近づいたあの時の気持ちは今も忘れない。
(我田 大)
