「ザイゴー」の子どもはあまり外の世界に行かなかった。せいぜい学区内、おもに自分のムラ(部落といった)のなかを動いていた。昭和30年代前半くらいまでのことを思っている。
わずかに「マチ」の夏祭りに行って、近郷近在から出てきた人々がうじゃうじゃいるなかで「マツリてやコーイモンダ」を体験した。イマ風にいえば非日常。学校も半日でアガリになって、一里(約4㎞)ほどをヤンデったり、バスに乗ったりして。わずかな小づかいでナンカを買ったり食ったりした。屋台のもののほか、誰かにきいてパン屋さんで食パンにイチゴジャムをぬったのを一枚買って食った。とんでもなくうまかった。おぼえて毎年一回食った。苺のほとんど入っていないそれがイチゴジャムだとずっと思っていた。(今はじぶんちの宝交イチゴと砂糖だけのジャムを作り食っている)。
五年生の修学旅行は柏崎だった。汽車で行った。上越線は電化していたが宮内乗り換えの信越線は蒸気だった(と思う)。初めて海を見たという友だちもいた。ココラの山ン中から海水浴に行くなんてかんがえはまだなかった時代。
私の場合、伯母が小出に嫁いでいたので年に一度くらいは外の世界へ泊まりに行けた。住まいは町の中だったので商店などが並んでいる通りを歩いているだけで、ものめずらしくうれしかった。奥只見ダムの工事で小出が繁栄していた時代だった。出前でラーメンなどを御馳走してもらった。ホントのラーメンも初体験だった。「出前をとる」ということばも、どういうことかも知らなかった。
とまあここまではマクラ。小出の駅から本町方面には魚野川にかかっている橋を渡って行くのだった。下を流れる魚野川は、同じ名前でもいつも遊んでいるココラ(旧石打小学校学区)あたりとくらべるとまったくの大河に見えた。幅広く深くて速い緑の流れ。足なんてもちろんツヅカナイそこを年上のイトコは泳いで横断できるといった。スゲエ。それができると水着(モッコフンドシ)の色を変えるのだといっていた。(後年そこを見ると狭く見えた。自分の体の大きさを基準に世界を見ているのだろう)遊んでいたムラも思い出の中では今よりずっと広い。
散歩というか町をタンケンしたついでに橋のランカンから首を出して下をのぞいた。大量の水が波立ったり滑らかだったりして流れるようすは、今でもそうだが、心になんかイワクイイガタイ感情をひきおこす。不安というか引きこまれそうとか。じっとそれを見ていると、コッタ動かないはずの橋と自分が上流のほうに動いているような感覚になった。水が橋脚にあたり白く泡立ち分かれて流れるのが船の舳先のように見えてくる。不思議。しばらくそうしていた。視線を外せばふだん通りの町があった。
話かわって、家の大きい窓は東に向いているので、晴れて起きていれば日の出を見ることができる。思いついて山の稜線のパノラマ写真をつくり、太陽の出た場所と時間を記録することにした。ズボラでも何年か続けていると動きがわかって面白い。春・秋分は真東でアソコとか、夏至冬至にはどこまで行くかとか。
その日の出を待っていると徐々に明るくなってきてある瞬間ピカッと白い光がくる。そしてどんどんまぶしくなる。日は昇るというのだがずっとそこを見ていると、ヤマノハ山の端(英語ではスカイライン〔空の線〕と逆向きのかんがえかた)がどんどん下に行くように見えてきた。日が昇るのでなく、地球が下に向かってじりじりさがっている気がしてきた。不思議。自分が大きい地球に乗っている気分。リクツをいえば 360÷24 で一時間に角度15度ずつ回るのだ。
(我田 大)
