昔の小学校には図書室があった、今もあるだろうが。本が大量にならんでいた。あたりまえだが。でも初めて見たときにはなんか異様な感じがした。それまで本がたくさん並んでいるのを見たことはなかった。それぞれの本に文字がいっぱいつまっている。それがぎっしりならんでいる。学校のある側面の象徴、と今はいえるが。
“(63)しょうがビール 広報誌2024年6月号掲載” の続きを読む(62)冬葱 広報誌2024年5月号掲載
冬葱はたいがいの家で植えている。買えば安くもない時もある。畑があればタダドーゼンでとれる。作るにソッケ面倒じゃなさそうだ。ジャー、オレも作る、で、はじめたのが四〇年ほど前。秋から冬にとってはつかい、カコッテおいて冬じゅう食っている。
最初の頃は苗を買っていた。六月ごろか、畑にヒラグヮ(平鍬)でミゾを掘って苗をアイサをあけて立てならべ、べトをかける、元肥をしてワラをしく。
そうだ苗のことはネギ苗ともいうが、としょりしょは「キ」ナエというのに気づいたのだった。なんでか。古語辞典をみれば、キは葱の古語。一〇世紀にできた日本最古の漢和辞書「和名抄」に万葉仮名で紀(キ)と読みがあるそうだ。昔、宮中の女房言葉で葱のことを「ひともじ」というのはキと一文字だから……。ひゃー、ココラんしょは千年も昔のことばを今もつかっているんだ。そう気づいたので他にも同じようなのがあるぞと思った。思うと思わないでは大違いだ。山菜とりもあると思って探すほうが見つかる気がする。自分で気づいて調べてわかるのは、ガッコのベンキョーとちがってたのしい。
あとで田っぽの雑草のナギというのを知った。漢字では水葱、和名抄で奈木(ナギ)。平安時代の人は「ナ(菜)のようなネギ」とおもって食っていたのかな、と想像もふくらむ。まあナギは食って見たが、さほどうまくなかった。
植えた冬葱は夏の終わりから3回くらい追肥をしては土寄せをする。最初はハサク(ウネの間)を広くしていなかったので、ベトを寄せるのにオージョー(往生)した。そのヘイコー(閉口)したのにこりて広くした。土寄せは人を見習ってヒラグヮでしていたのだがコッテェ腰がヤメルのでレーキ方式をかんがえた。ハサクを培土器をつけた軽耕耘機で走り、そのよけたべトをレーキでよせる。腰を曲げないのでだいぶ楽。管理機を持たないのでこうなった。土寄せは葱のエリ(襟)を埋めないようにというのもおぼえた。「葱の襟」という命名にナルホド。着物の襟と見たな。
だんだん畑しごとに慣れてくるとキナエを買わないで自分で育ててみたくなった。市販の苗は秋蒔きが多くコーチネーといわれていた。種は雪がケーたら早めに蒔く。いろいろしてみたがなかなかうまくできなかった。畑に蒔き床をつくると雑草との戦いが熾烈。自分みたいなノメシコキは草に負け、買えばいいや、もらえばいいやとなりがちだ。プラグポットにも蒔いてみたが、1・2粒ずつがたいへん。ていねいに面倒みるのも苦手で、うまく育たなかった。こった発泡スチロールの箱に草がオイリないよう買ったべトを入れて蒔いた。角材の角を押しつけて蒔き溝をつくり、ひねり蒔きをすると三角の溝の底に種が一列に並ぶ、間隔はかげんする。ベトをかけ鎮圧し水をくれる。雨よけと乾燥防止に不織布をかける。芽が出たらはぐ。あと様子みて液肥をくれる。モライモンの田植機残りのペーストはたいへんチョーホー(重宝)。混んでいるところをちょっとウルノゲば七月はじめ頃には苗ができる。これでやっと自分の好きな品種を作ってみられるようになった。今は石倉、ほかに下仁田とリーキ(西洋葱)を少々。
冬にふっといイシクラのウワッコの皮(コーチネー)をむき包丁目をナナメ裏表にいれてブツ切り、ゴマ油をしいたフライパンでころころ焼き目をつけて醤油をジャッ、七味パラパラで食った。アフ、トロ、アチチ。バカゲにアメェーなー。ンーメェ。
イッサで葱のシンメンボク(真面目)にイキアッタ気がした、ので書きました。
(我田 大、 「季節料理 大」 主人)
(61)「民」謡 広報誌2024年4月号掲載
※写真は掲載許可済
子どもの頃だったから七〇年ほど昔、昭和の二○年代のこと。農家は農耕用に牛か馬を飼っていた。その冬のエサ用に夏に干し草を作った。家や田畑のメグラのでは足りない。入会山(いりあいやま)に草刈りに行った。明るくなりかかった頃、寝床のなかで山に向 かう牛馬の足音や人の唄声をきくことがあった。どんな唄かはおぼえていないがその印象は自分の中に残っている。
今のように音楽が毎日ちまたにあふれていることはなかった。テレビはまだなくラジオもよく入らなかった。思いだされるオンガクは、お祭りの笛や太鼓、棟上げ後のトリョウ(棟梁)送りでズイタ(図板か。かんたんな設計図が書いてある板)をハタキッコーシながら酔っ払って唄ってくる声(「伊勢音頭」か)。年に一回くらいやってくるゴゼンボ(瞽女)の唄だか語りもきいた。昼飯の宿をするとその礼に一席やった。近所の人が集まった、その外側できいていた。意味はわからなかったが感じは覚えている。建物の地盤を固めるイシバカチも見たことがある。みんなで綱を引っぱって太い丸太を引き上げては落として固める。そのとき唄をうたい気を合わせていた。「カチコメ、カチコメ」というリフレインが耳に残っている。
音頭取りのいる盆踊りは夜で小さい子どもだったので残念ながら経験できなかった。遠くの太鼓の音をきくばかり。
そうだ、三〇年くらい前に買った「日本のワークソング」(キング)というCDに「熊ひき唄」というのがあった。出してみれば歌詞は〽ハァ、苗場山頂で熊とったぞ、ヨーイトナ・ヨーイトナ、ハァ、引けや押せやの大力(たいりき)で、ハァ、この坂登ればただくだる、ハァ、西と東の大関(おおせき)だ、ハァじさまもばさまもでてみやれ」というもの。場所は長野県とあったが、苗場山からみて秋山郷あたりではないか。その、のんびりとした調子と唄声がなんともいえずいい。耳から覚え、唄いなれて身についたものだろう。寝床で聞いた唄と重なる雰囲気だった。
というようなことを思い出したのは木津竹嶺さんの唄をきいたせいだ。南魚沼市出身という民謡歌手のCDを知り「南魚沼」につられて買った。「卒寿」(YouTube で試聴できる)。
一聴、なんだこの声は。しゃがれ、ねじくれ、つきすすんでいく。意味なんてほとんどわからない。声が自分の体に直接うったえる。(ことばはまず文字ではないことにあらためて気づく)……テレビでたまにみる「民謡」の声とも、ぜんぜんちがう。家元臭とでもいおうか、手本がある感じがまったくない。間違うとか外れるとかいうかんがえもない。昔、人々が唄っていただろう「民」謡のにおいがする。声は「熊ひき唄」よりずっと、ひずんでいるが、それは人それぞれか。語尾などにかすかにココラことばのひびきがきこえることもある。こんな人がいたんだ。知らなかった。娘の民謡歌手木津かおりさんが三味線などで伴奏している、その正統的な音とまったく調和する気もない感じがすごい。「耳」利きの音楽プロデューサー久保田真琴さんが「耳」をつけ、録音を提案しCDができあがった。間もなく竹嶺さんは亡くなられたという(1932―2022)。九〇歳(!)であの身についた強力な声。こういう長年自力でみがきあげた声の質は、今のニホンのオンガクの世界でイキアウことはほとんどない。ことばになるまえの感情がきこえる。
二〇代前半で東京に出たという竹嶺さんの出身はどこか。「木津」を電話帳で調べれば、旧東村の大桑原に多い。そこだろうか。
(我田 大、 「季節料理 大」 主人)
(60)焼エンダイブ 広報誌2024年3月号掲載
エンダイブというサラダ野菜がある。チリチリカールした葉が特徴。見たら忘れない。食べるとほろにがくてシャキシャキしている。しかしこれ単独より、たとえば、レタス、赤玉葱、キャベツ、クレソン、トレビスなどとまぜて、フレンチドレッシングであえたサラダのほうが、私は好きだ。少量のおろしニンニク、アンチョビも加えたい。オリーブオイルはエクストラバージンのちょっといいやつ。酢は白ワインビネガーにタラゴン(植えてある)を漬けたタラゴンビネガーがいい。胡椒はブラックの挽きたて。あと塩(ラテン語sal、サラダの語源)で、これ ぞサラダという味だ(と思う)。本場ヨーロッパでサラダを食ったことはないが、それらの野菜を全部ジブンで栽培し、料理して食ったら舌がうまいというから、合格と思っている。
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