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子どもの頃だったから七〇年ほど昔、昭和の二○年代のこと。農家は農耕用に牛か馬を飼っていた。その冬のエサ用に夏に干し草を作った。家や田畑のメグラのでは足りない。入会山(いりあいやま)に草刈りに行った。明るくなりかかった頃、寝床のなかで山に向 かう牛馬の足音や人の唄声をきくことがあった。どんな唄かはおぼえていないがその印象は自分の中に残っている。
今のように音楽が毎日ちまたにあふれていることはなかった。テレビはまだなくラジオもよく入らなかった。思いだされるオンガクは、お祭りの笛や太鼓、棟上げ後のトリョウ(棟梁)送りでズイタ(図板か。かんたんな設計図が書いてある板)をハタキッコーシながら酔っ払って唄ってくる声(「伊勢音頭」か)。年に一回くらいやってくるゴゼンボ(瞽女)の唄だか語りもきいた。昼飯の宿をするとその礼に一席やった。近所の人が集まった、その外側できいていた。意味はわからなかったが感じは覚えている。建物の地盤を固めるイシバカチも見たことがある。みんなで綱を引っぱって太い丸太を引き上げては落として固める。そのとき唄をうたい気を合わせていた。「カチコメ、カチコメ」というリフレインが耳に残っている。
音頭取りのいる盆踊りは夜で小さい子どもだったので残念ながら経験できなかった。遠くの太鼓の音をきくばかり。
そうだ、三〇年くらい前に買った「日本のワークソング」(キング)というCDに「熊ひき唄」というのがあった。出してみれば歌詞は〽ハァ、苗場山頂で熊とったぞ、ヨーイトナ・ヨーイトナ、ハァ、引けや押せやの大力(たいりき)で、ハァ、この坂登ればただくだる、ハァ、西と東の大関(おおせき)だ、ハァじさまもばさまもでてみやれ」というもの。場所は長野県とあったが、苗場山からみて秋山郷あたりではないか。その、のんびりとした調子と唄声がなんともいえずいい。耳から覚え、唄いなれて身についたものだろう。寝床で聞いた唄と重なる雰囲気だった。
というようなことを思い出したのは木津竹嶺さんの唄をきいたせいだ。南魚沼市出身という民謡歌手のCDを知り「南魚沼」につられて買った。「卒寿」(YouTube で試聴できる)。
一聴、なんだこの声は。しゃがれ、ねじくれ、つきすすんでいく。意味なんてほとんどわからない。声が自分の体に直接うったえる。(ことばはまず文字ではないことにあらためて気づく)……テレビでたまにみる「民謡」の声とも、ぜんぜんちがう。家元臭とでもいおうか、手本がある感じがまったくない。間違うとか外れるとかいうかんがえもない。昔、人々が唄っていただろう「民」謡のにおいがする。声は「熊ひき唄」よりずっと、ひずんでいるが、それは人それぞれか。語尾などにかすかにココラことばのひびきがきこえることもある。こんな人がいたんだ。知らなかった。娘の民謡歌手木津かおりさんが三味線などで伴奏している、その正統的な音とまったく調和する気もない感じがすごい。「耳」利きの音楽プロデューサー久保田真琴さんが「耳」をつけ、録音を提案しCDができあがった。間もなく竹嶺さんは亡くなられたという(1932―2022)。九〇歳(!)であの身についた強力な声。こういう長年自力でみがきあげた声の質は、今のニホンのオンガクの世界でイキアウことはほとんどない。ことばになるまえの感情がきこえる。
二〇代前半で東京に出たという竹嶺さんの出身はどこか。「木津」を電話帳で調べれば、旧東村の大桑原に多い。そこだろうか。
(我田 大、 「季節料理 大」 主人)